通勤・通学で電車や道路が混み合う時間帯、リカは行きつけのカフェでカフェラテをオーダーし、
iPhoneに設定したiDでお会計を済ませて歩いて会社へ向かっていた。

名の知れた都内の私立大学に通い、テニスサークルで目立つ存在だったリカ。
就職は少し苦労したものの、大手総合商社の一般職に就くことができた。
趣味はエステと旅行で、年に一度の海外旅行ははずせない。
自分磨きと称してエステにジム通い、高級化粧品など自分への投資は惜しまずにしてきた。
その甲斐あってか、今まで彼氏は途切れたことがない。

―人生って、けっこう楽勝かも。
リカはそう思っていた。

実際に、今付き合っている2歳年上のヒロキは、丸の内の商社に勤めるいわゆるハイスペック彼氏だ。
デートの食事は気の利いたレストランが多く、身に着けている服も上質でおしゃれ。友人からの評判も上々だ。
出会いは合コンだがいつも自然体でいられるし、彼との結婚なら考えられる。


もちろん、世の中にはもっとハイスペックな男性はたくさんいるし、上を見ればキリがない。
仕事には物足りなさを感じなくもないが、大手で安定しているし、給料もそこそこ良い。
それに、辞めて何かしたいことがあるわけでもなかった。


社会人5年目になり、会社から徒歩圏内の港区のワンルームで暮らして4年が経つ。
華やかで歩く人皆がお金持ちに見えるこの街が、リカは嫌いではなかった。
ただ、どこかすべてが他人事のように見えるだけ。
そう、いつもリカは自分の居場所に、居心地の悪さを感じているのだった。

その日、リカは会社帰りに六本木のバーでヒロキと待ち合わせをしていた。
取引先との打ち合わせを終えてタクシーで向かおうとしたが、
道路が混雑していてなかなかタクシーがつかまらない。

しかし幸運にも、ちょうどリカのそばに乗客を降ろす1台のタクシーがやってきた。
その乗客は大きめのバッグを探り、長財布を取り出して現金で支払いをしていた。
さらにドライバーとのおつりのやりとりに手間取っているようだった。
その様子を見て、リカは「間に合うかな…」と少し不安になった。
ようやく乗客が降りるとリカがそのタクシーに乗り込み、バーへ向かった。

Apple Payに登録したiDでスムーズに支払いを終えて腕時計を見ると、待ち合わせ時間ちょうどだった。
財布の出し入れやおつりの受け渡しが必要ないiDは、急いでいるときにも大活躍だ。
おまけに荷物も少なくできるため、仕事がある日でもおしゃれで小さなバッグが使える。

金曜日だからなのか、店内はいつもより人が多くにぎやかだ。
ヒロキもタクシーでこちらへ向かっているが少し遅れると連絡が入ったため、
リカはカウンターのスツールに座りカクテルを注文した。リカの前にカクテルが置かれたとき、
左隣に見知らぬ男性が腰を掛けた。

―30代前半、顔は悪くないけど、このバーにこの服装はカジュアル過ぎかな…65点。
リカは心の中でこの男に点数をつけた。

男性はウイスキーを頼み、ちびちびと1人で飲んでいた。
すると突然、リカの方を向き

「ちょっとだけ、話し相手になってくれませんか?」

「え…?」

―何なのこの男。怪しすぎる。

「あ、いや、怪しいと思ってますよね。ナンパとかじゃなくて、ただ少し話し相手になってほしいってだけで。
僕、小説家やってまして、武田といいます。それで、ちょっとネタに困ってて…。」

どうやらこの武田という男は、小説家をしていて、編集者との打ち合わせを終えてこのバーに軽く飲みに来たようだ。

「小説家と言っても、まだ駆け出しだけどね…。」

そう照れて笑う武田の笑顔に、リカは一瞬ドキッとした。

そんな矢先、ヒロキが店に到着してリカの右隣のスツールに座った。

「リカ!待たせてごめん!て、あれ?知り合い?なわけないよな。」

ヒロキは見た目で人を判断する癖がある。リカはこういうヒロキが好きではなかったが、
いつも気づかないふりをしていた。
雰囲気を察してか、武田はバツの悪そうな顔をして、席を立って店を出てしまった。

「う、うん。全然知らない人。」

ヒロキは、ふうん、とつまらなそうに呟くと、バーのお会計を済ませるためにレジへ向かった。
現金で支払おうとしたが小銭が足りなかったようで、

「リカ、あと20円ある?」

と聞いてきた。

―こういう時iDを使えば小銭はいらないし、もっとスマートなのにな。

そう思うと同時に、リカは何とも言えない気持ちが胸に渦巻くのを感じた。
レジには次に会計を待つ人が数人並んでいる。

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