スマホにiDを設定したことで、シホは自分が前進したような気持ちになった。
―さっそくiDを使ってみたいな。ちょうど明日買い物に行く用事もあるし、試してみよう。
翌日、シホは子どもを連れてドラッグストアへ日用品を買いに出かけた。必要な物をひと通りカゴに入れると、ふと、マスカラやアイシャドウなどのメイク用品に目が留まった。
―最近、こういうの買ってないな。いつからマスカラをしないで出掛けるようになったんだろう。
…たまには、いいよね。
オムツやシャンプーと一緒にマスカラもカゴヘ入れ、シホはスマホを片手に、少しドキドキしながらレジへと向かった。
「あの、iDで支払いますっ!」
普段は子どもを抱えながら鞄から財布を取り出しお金を数え…とまごついていた会計も、iDは子どもを抱えていてもスマホをかざすだけで終わり、あまりの早さにシホは驚いた。
帰宅後、シホは少し念入りにメイクをし、仕上げにマスカラを塗ってみた。今日はこれからママ友たちとのお茶会の日だ。
「じゃあ、ちょっと出掛けてくるから。二人でお留守番よろしくね。」
シホが夫のコウタに声を掛けると、じーっと顔を見つめて言った。
「今日なんかいつもと違うね。」
「そ、そう?たまにはお化粧くらいしないと。」
シホはそう答えながらも、自分の変化に気づいてもらえたことに嬉しくなった。
そして、ずっと使っていなかったお出かけ用の小さな鞄を持ち、玄関を出た。
待ち合わせのカフェでママ友たちと落ち合い、いつものようにお互いの近況を話し合っていたとき、ふいにママ友の一人が言った。
「今日のシホちゃん、いつもよりキレイで雰囲気も違うね。何かあった?」
シホは褒められたことに照れながらも、自信が湧くのを感じた。
「特に何があったってわけじゃないんだけど…今まで自分に全然手をかけてこなかったから、たまにはおしゃれしなきゃと思っただけよ。」
「そっか~、確かにいつものシホちゃん、ちょっと…、ね。私もシホちゃん見習っておしゃれしなきゃな~。」
「うん、いつものシホちゃんよりずっといいと思うわ。」
シホの話をきっかけに、その後はメイクやファッションの話で盛り上がった。
ひと通り話したところで、そろそろ帰ろうか、とママ友の一人が言い、みんなでレジへ向かった。個別会計を頼み何人かは一万円札を崩していたが、シホだけがiDでスピーディーに支払いを済ませた。
―やっぱり、おしゃれって楽しい。鞄が小さくなったからか、足取りも軽い。
ショーウィンドウに映る自分を横目に颯爽と街を歩くシホに、突然パンツスーツの女性が声を掛けてきた。
「あの~、読者モデルに興味ありませんか?」
「えっ、…読者モデル?私が?」
「突然すぎてビックリしますよね。すらっとして身軽で、すごく素敵な方だと思って。もし興味があるようでしたら、いつでもこちらに連絡ください。」
思いがけない出来事にただうなずくしかできないシホに、女性はにっこりとほほ笑み足早に立ち去った。
反射的に受け取ってしまった名刺に目を落とすと、有名な女性雑誌の名前が書かれていた。