「昨日のクライアント、ケンタに任せようと思うんだ。俺の顔に泥を塗るようなことだけは
しないでくれよな?」
「え、そんな…中村さん、丸投げしすぎじゃないですか?」
できるだけ怒りが伝わらないように短く言うと、
「あれ、さすがに自信ない?」
中村は驚いたような顔をしながらケンタを覗き込んできた。
「…分かりました、受けますよ。」
闘志に火を付けられたケンタはとっさにこう答え、結局中村の仕事を引き受けることになった。
半ばヤケで引き受けたとはいえ、これは自分の実力を認めてもらうチャンスだ。
翌日、いつものように自転車で仕事に向かい、途中のコンビニで朝食を買う。
iDが登録されたスマートウォッチで会計を済ますケンタ。
財布を出し入れしなくて済むため、忙しい朝の時間を少しでも短縮でき重宝している。
会社に着くと、昨日のモヤモヤからいつものポジティブな思考に切り替え、早速その案件に取りかかる。
幸い、札幌のクライアントとは前回会ったときに好感触を得ていたし、信頼関係を築けそうな相手だと思う。
何度かやりとりを続けるうちに、クライアントと意見が衝突することもあったが、あくまでもクライアントにとって最良となりそうな考えを通し、時には要望に沿えないことも伝えた。
クライアントにメールを送り、休憩所で一休みしていたケンタの向かいに中村が座る。
「あのさ、札幌の件だけど。クライアントの要望聞かなさすぎじゃない?向こうの意見は通すべきだろ。」
「いえ、僕は今だけではなく数年後、10年後を考えたときに先方の一番良い形にしたいと思い…。」
「そんなこと言ったって、今気に入ってもらえなきゃ先はないだろ?頼むよ、社運をかけた大事なプロジェクトだってこと分かってる?」
―分かっている。
だからこそケンタは妥協したくないのだ。
席に戻ると、同僚から声を掛けられた。
「賀来さん!この前の資料、目を通してもらってありがとうございました。指摘してもらったところ、修正して出したら海外のクライアントからもかなり高評価をもらえました。ほんと助かりました。」
「よかった。また何かあったらいつでも言ってよ。」
「ちょっとその話、俺聞いてないよ?」
ケンタと同僚の会話に中村が割って入る。
「相談するなら、リーダーの俺にしてもらわないと。そういうの、困るんだよね。」
「…すみません。」
最近の中村は些細なことでもすぐにトゲのある言い方をしてくる。
ケンタはその態度が気になっていたが、深く考えないようにした。
その夜、ケンタは久しぶりに彼女と食事をした。
人気のレストランでワイングラスを傾けながら、ゆっくりとした時間を過ごす。
―こんなに心が安らいだのはいつぶりだろう。ずっと仕事のことで張り詰めていたからな。
気が緩んだケンタは、最近仕事で感じている違和感をこぼした。
「最近、何かと突っかかってくる先輩がいてさ…仕事はできる人なんだけど、わざと嫌がらせしてる気がするんだ。」
「どうしてだろう?でも、同族嫌悪っていうし、案外仲良くなれたりして。」
「そうかなぁ…そんな日が来るかなぁ。」
今は想像もできないが、彼女に話したことでケンタは少しスッキリした気持ちになれた。
そして彼女が席を外している間に、iDでスマートに会計を済ませた。
翌日からもケンタはどんな仕事でも卒なくこなし、入社してたった数カ月で社内からの厚い信頼も得ていた。もちろん、札幌のクライアントとの信頼関係も着々と築くことができている。
そして、再びクライアントへの提案を数日後に控えた日、資料の最終チェックをしていると、突然中村に声を掛けられた。
「お疲れ。札幌の案件、悪いんだけどやっぱり俺が考えた提案を話すことにしたわ。」
「ちょっと待ってください。今日まで何度も意見交換して、やっと形にできたんです。」
「でもなぁ、やっぱりケンタの案じゃ不安だからさ。」
「そんな…」